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掃苔録(一)

2017年 4月 7日17:06 提供:東方ネット 編集者:兪静斐

  作者:銭 暁波

 時節柄、故人を偲び、お墓参りに行かれる方は多く、コラムも墓参することについて少々語ろうと考えている。

 東京は青山墓地、雑司ヶ谷霊園、染井霊園、多磨霊園など墓苑が各所に点在し、なかには多くの文学者が永眠されている。霊園めぐりを趣味にする人もいるが、趣味ほどではないにしても、文学に少々携わっているということもあって、文学者のお墓参りに行く機会が度々あった。

 墓苑に入ると、都会の喧騒がピタッと身の後ろでシャットアウトされたかのように、一面の静寂が広がっている。それでなんとなく現実離れな気分になり、五感を研ぎ澄ませ、鬱蒼と生い茂る木々の間の道を辿り、敬虔なる気持ちでそこで眠る文学の神々にそっと近づいていく。

 早稲田大学の近くから都電荒川線に乗ると、ほどなくして雑司ヶ谷霊園に着く。夏目漱石をはじめ、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲などの文豪のお墓はそこにある。

 さすが天下の漱石だけあって、お墓も人一倍大きく、訪ねてくるものをはっと驚かせてしまいそうなお墓である。大きな墓石は肘掛椅子をモチーフに友人の建築家が設計したようであったが、親族の反応はかならずしも上々とは限らなかった。「十代の頃、漱石の孫ということに強く反発した僕は、この墓にひどく権威的な威嚇を感じてなじめなかった。見下ろされるような気がしたのだ」と、漱石の孫の夏目房之介氏はエッセーの中にこのように述べている。漱石が生きていればこの墓をみてきっと「苦い顔」をするだろうし、「もっとふつうの何げない墓がふさわしいと」房之介氏は思っているようであった。一昨年前、ある学会で房之介氏にお目にかかって、しばらく雑談を楽しんだが、お伺いしたかった漱石のお墓のことをつい聞きそびれてしまった。

 永井荷風は父親の永井久一郎とともに永眠されている。墓所は道のすぐ近くにあったが、深い木々と生垣に囲まれていたため目立たなく、何度も通り過ぎ、やっと見つけたぐらいであった。墓碑の正面は「永井荷風」、背面は本名の「永井壮吉」と書かれている。父親の久一郎は明治期の著名な漢詩人なので、墓碑の正面はその号である「禾原先生」と刻まれている。関東大震災の際、墓碑が倒れ、毀損したため、「禾原先生」の字はほぼ読めない状態になっている。

 荷風は生前、父親との間に確執があったようだが、逝去後、仲睦まじく墓を並べて泉下で和解したようである。久一郎が亡くなったあと、荷風はその命日によく雑司ヶ谷霊園に訪れていた。お墓参りの様子を『断腸亭日乗』にも記されている。父親のもう一つの号である「来青閣主人」にちなんでタイトルとした随筆の『来青花』には、「先考の深く中華の文物を憬慕せらるゝや、南船北馬その遊跡十八省に遍くして猶足れりとせず、遥に異郷の花木を携帰りてこれを故園に移し植ゑ、悠々として余生を楽しみたまひき」と書かれ、行間から父親への敬慕の念がにじみでている。

 さて、次回も文豪のお墓参りについて続けて語っていきたい。