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ハート·カバー(二)

2016年 8月 5日10:17 提供:東方ネット 編集者:兪静斐

  作者:銭暁波

 前回の続きである。

 書物にカバーをかける行動は、日本人の日常生活における言動意識を探ることができ、社会心理学の一端として考えることができるのではないかと小生は思うのである。

 本にカバーをかけたがる日本人の行為について考える前に、例えば、外国人から次のような愚痴がこぼされるのを聞いたことはないだろうか。「日本人ははっきりとものをいわないので、その考えがとてもわかりにくい」。実際、外国人とのコミュニケーションだけではなく、日本人同士でもやはりお互いの気持ちを模索しながら付き合っていくのはよくあることだ。日本文化の特徴を一つ挙げるとしたら、「隠しの文化」といえるのではないかと思う。この文化特徴をヒントにすれば、本にカバーをかけたがる日本人の気持ちも理解できるのではないだろうか。つまり、日本人は自分が読んでいる本の題名を人に見られると恥ずかしく感じ、ブックカバーはプライバシーをも保護する役割を果たしてくれている。

 日本社会における人と人の関係は実に難しいもので、本にカバーをかけるのと同様に、日本人は自分の心にもカバーをかけたがるのではないかと思う。それがゆえに、日本人の言語表現には「曖昧さ」ばかり目立っている。尊敬語や謙譲語が発達しているのもその理由ではないかと思う。さらに、婉曲な表現とか、時候の挨拶とか、差別用語とか、とにかく言葉には大変気をつけている。日常生活の中での人付き合いや、言語表現には人一倍気を遣っている日本人は、当然の如く、ストレスもたまりやすいのである。ゆえに、日本人はよく人間関係に悩むのである。

 しかし、この「隠しの文化」は単純にマイナスばかりなのかというと、そんなことはない。「隠し」とは一種の「気遣い」でもある。相手に気遣って、自分の言動をなるべく不快感を与えないように、という日本人の繊細さもここからあらわれている。「隠し」とは日本社会の暗黙の規則になっていて、日本社会の一種の作法のようなものではないかと思う。日本人同士はみなこのような暗黙のルールを守りながら、相手との間に微妙な距離を保ち、気遣い、また気遣われ、社会生活を円滑に行っているのである。

 「隠しの文化」は考えようによってはさまざまな見解が生じる。良くも悪くもそれは日本ならではの風土文化から生まれた日本人の心の在り方である。しかし、時代の進化とともに、「隠しの文化」も少しずつ日本社会から遠ざかっているような気がする。

 十年ぐらい前の話だと思うが、若い女性たちが電車で人の目を気にせず、堂々と化粧をする行為が世間から非難され、その問題をめぐり日本社会は大論争した。「公的な場での化粧」は「隠し」という従来の日本の文化精神を破壊しだしたからなのではないだろうか。また、インターネット社会において、自己の主張やプライベートのことを書き綴り、公表することはもはや社会人の生活の一部となっている。自分の内心世界をありのままさらけ出すことは、考えてみれば「隠し」という従来の日本の文化特徴と逆行するものである。

 若い人は固定観念に縛られたくなく、伝統と逆行してしまうことが多々ある。そのことを考えると、日本人も、とりわけ若い人を中心に、心を包む「ハート·カバー」を少しずつ取り除こうとしているのかもしれない。(了)