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因縁(一)

2016年 5月 9日17:15 提供:東方ネット 編集者:範易成

作家:銭暁波


  文壇における余談は、正統な文学研究では触れることが少ないかもしれないが、文学好きの間では余興としてよく語られるのである。

  周知のように、谷崎潤一郎と芥川龍之介はともに日本近代文学を代表する小説家である。前者は『刺青』『痴人の愛』『細雪』などの作品で世に名を馳せ、計四回もノーベル文学賞にノミネートされた日本耽美文学の巨匠である。後者は『羅生門』『地獄変』『河童』などの名作を著し、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」の名言が記された遺書を残し、三十五歳の若さで謎の自殺を遂げた文学の巨人である。

  今回は偉大なるこの二人の小説家の関係について少々語りたいのである。この二人、作風からみると遠い存在のようで実は深い関係で結ばれているのであった。谷崎自身の言葉を借りれば、つまり「因縁が深い」のである(『芥川君と私』)。

  文学に興味ある人なら、日本近代文学史上に残る大論争、いわゆる「小説の筋」をめぐる文学論争の話を一度は聞いたことがあるだろう。論争を繰り広げたのは上述の二人である。簡潔にまとめると、つまり、芥川龍之介の「話の筋というものが芸術的なものかどうか、非常に疑問だ」という批判に対して、谷崎潤一郎が「筋の面白さを除外するのは、小説という形式がもつ特権を捨ててしまふことである」と応酬したのであった。二人が当時の名文学誌『改造』誌上にて反論、再反論を繰り返したが、この侃々諤々(かんかんがくがく)の論争は芥川の自殺によって幕が閉ざされた。

  谷崎は1886年(明治19年)に生まれ、芥川は谷崎より六歳年下で、1892年(明治25年)に生を受けた。二人ともいわゆる東京の下町の生まれで、中学校(谷崎によれば自分は府立一中だったが、芥川の三中とほぼ同じような学校)も高校(第一高等学校)も大学(東京帝国大学)も同じであった。

  二人が文壇で頭角をあらわしたのもともに大正文学の拠点の一つである文学誌『新思潮』であった。谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)を『新思潮』に発表し、永井荷風の激賞を受け、文壇での地位を確立した。年の差と同じ六年の後、芥川龍之介の名作『鼻』が『新思潮』に掲載され、今度は夏目漱石の賞賛によって出世した。谷崎は二人のこうした文壇デビューを「花々しい」と評したが、確かにそのようであった。

  先輩後輩の二人が初めて出会ったのは1917年1月であった。芥川と友人と谷崎宅へ訪問し、当時まだ若手の小説家の二人だが、共通点が多いゆえにすぐに仲良くなり、文学について話が盛り上がった。以来、二人は徐々に親交が深まっていったのである。

  しかし、この二人は性格も趣味も、ひいては文学に対する見解も作風も随分と異なっている。これについて、1924年に芥川が『新潮』に発表した「谷崎潤一郎氏」という随筆の冒頭の文を読むとわかるかもしれない。

  「僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。谷崎氏はその日も黒背広に赤い襟飾りを結んでいた。僕はこの壮大なる襟飾りに、象徴せられたるロマンティシズムを感じた」。谷崎の派手な服装と対照的に、芥川は父親の着古した地味な和服を着用していた。服装のセンスからしてすでに二人の性格のギャップが窺えるし、そこからさらに西洋と東洋の文化に対する所見の相違もみえてくるのではないかと思う。

  さて、この二大小説家の違いはそのときにおきたものではない。実はそれ以前のそれぞれの上海行きですでに激しく対立したのであった。

  この話の続きは、また今度紹介していきたい。