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上海•大阪交流文集|「餘音梟梟して、絶へざること縷の如し」-私が経験した上海·大阪間の経済貿易交流

2022年 11月 2日16:56 提供:東方網

 今年は中日国交正常化50周年に当たる記念すべき年であり、両国関係の発展史上に於いては節目の意義ある重要な年です。半世紀にわたる中日関係は、蜜月の時期もあれば、風雨に満ちた時期もありました。友好交流と経済貿易協力の過程で、数知れない「餘音梟梟して,絶へざること縷の如し」のような物語が生まれました。当面の複雑な国際情勢に於ける両国関係は、チャンスとチャレンジが並存する時代に有ります。両国の普通の人々により作られた物語は、新しい出発点に立つ中日関係の持続発展に不可欠な動力となるでしょう。

 50年前の1972年9月29日、中日両国は国交正常化を実現しました。この日は、ちょうど羅和慶の18歳の誕生日でした。この年の12月に、彼は進学の為、上海の古北路620号の元上海対外貿易学院へ入学し、日本語と国際貿易を勉強する学科に配属されました。1978年に、彼は上海市対外貿易局に転じ、外事処で日本語通訳を担当。1994年、大阪へ赴いた彼は、上海市対外経済貿易(大阪)代表事務所首席代表に就任しました。このポストでの勤続期間は、なんと10年にも及びました。数年前既に定年退職を迎えた羅和慶は、現在でも尚、上海市外国投資促進センター顧問、一般社団法人日中経済貿易センター上海代表処顧問を勤めています。

 日本との付き合いの始まり

 記者のインタビューに、羅和慶は次のように語っていました。「古北路の学校で日本語を勉強し始めてから、日本と関係の有る事柄や人びとへの付き合いが出来ました。入学して間もなく、日本の相撲が中国を訪れ、公演を行いました。学校の大講堂で、当時はまだ珍しかった投影式のテレビを通じて公演の実況中継を観覧し、大変深い印象を残しました。」

 実習期間中は、服装、シルク、土産·畜産などを含む上海の各対外貿易公司の各種の対日商談会に参加、通訳を担当。その後、広州で開催される「広交会」(中国輸出商品交易会)で、日本の商社各社の受け入れなどを担当しました。  

 1978年、羅和慶は上海市対外貿易局(中国国際貿易委員会上海市分会の対日交流業務を兼任)に転じ、先輩の趙津華(副訳審で、「君よ、憤怒の河を渡れ」、「ああ、野麦峠」等、多数の日本映画の脚本を翻訳)とともに、対日経済貿易交流に従事することとなりましたが、これが羅和慶のその後数十年間にも及ぶ対日経済貿易交流のスタートとなりました。

 【写真説明:1995年2月27日、‘95上海経貿商談会が大阪で開催されました。開幕式後、日中経済貿易センター木村一三会長(右より3人目)、上海代表団との記念写真(右より一人目は羅和慶)】

 【写真説明:1998年秋、趙津華(左より二人目)と羅和慶(左より一人目)は京都で吉村紡績株式会社吉村啓子社長(右より二人目)を表敬訪問、吉村紡績(株)は関西地域の有名な紡績品加工及び貿易の著名企業で、当時は、毎年開催された上海対日服装商談会に参加。創業者の吉村孫三郎(吉村啓子の父親)は日本国際貿易促進協会京都総局会長を務め、嘗ては京都嵐山の周恩来詩碑建設実行委員会委員長をも務めました。】

 上海‐大阪、中日経済貿易交流の重要な窓口

 羅和慶が転勤してから、間もなく「日本国貿促十団体訪中団」の受入に従事し、その中で一番付き合いの多かったのが、「日本国際貿易促進協会関西本部」(後の一般社団法人日中経済貿易センター)の皆様でした。羅はまた「上海市対外経済貿易(大阪)代表事務所」の設立準備作業にも参与し、当該代表事務所は1982年5月1日に正式に発足しました。1994年2月、羅は大阪へ赴き、上海(大阪)代表事務所の四代目の首席代表に就任しました。 上海市対外経済貿易(大阪)代表事務所は、中日経済貿易交流の重要な窓口であり、設立当初は、上海の対日輸出入貿易や対日研修生派遣等の調整を主要業務としていましたが、後に上海の対日投資誘致に重点を移しました。羅和慶は当時、上海市人民政府と大阪府、大阪市(大阪の主要経済団体を含む)との間で毎年開催された「上海·関西経済交流会議」に深くかかわり、自らも毎回の交流会議に欠かさず参加しました。上海と関西地区は、似たような経済配置が有り、20世紀90年代から今世紀の初め頃まで、両地域は、電子、バイオ技術、商業と現代サービス業など多くの分野において、広範な交流と協力を展開しました。

 【写真説明:1981年11月、日本国際貿易促進協会関西本部(後の日中経済貿易センター)は上海で“日本プラスチック·食品工業展覧会”を挙行し、木村一三理事長(当時、前列左より一人目)が訪中団を率いて上海を訪問し、上海市汪道涵市長(前列左より二人目)が訪中団と共に展覧会を見学しました。(後列左より一人目は羅和慶)】

 羅和慶の紹介によると、今上海で事業を順調に展開している日系企業の多くは、駐大阪代表事務所の斡旋で設立されたものです。一例を挙げれば、現在上海に多くの診療所を持つ“徳真会”歯科医院は、2001年に、当時の上海市蒋以任副市長一行が大阪で投資セミナーを開催した席上で相談を受けた案件で、大阪事務所がフォローし、成功させた投資プロジェクトです。その他、金山工業区に投資した今井特線やシャープ商業貿易会社等数多く有ります。

 若者は未来を切り開く希望だ 

 羅和慶には大好きな「譲我歓喜譲我憂」と言う周華健の古い歌が有ります。「私個人としては、この歌の曲名は中日関係の50年間のうねりを如実に表しており、感無量です。」と羅はコメントしています。羅は20世紀80年代、90年代頃が中日両国の関係発展における一番輝かしい時期と認識しています。「当時は、忙しい時は、日本の通産省、国貿促または地方自治体からの訪中経済ミッションを同時に幾つも受け入れ、その対応業務に追われましたが、そのようなことは正に日常茶飯事でした。また週末の残業は当たり前で、大変忙しかった半面、とても充実した毎日でした。」  

 最近の十数年間、両国の間に、政治·経済等分野での摩擦が時々現れ、また日本には“中国脅威論”を唱える声も後を絶たず、両国関係は転換と挑戦に直面しています。そうした中、両国関係の改善には、民間の交流が極めて重要だと羅は考えています。「とりわけ両国の若者同士の交流を更に深めることは不可欠で、若い人達は中日関係の美しい未来を切り開く重要な力です。」  

 ここ数年、日本への中国人観光客が急増し、中国の若者の日本に対する理解が比較的深まったのに対し、日本の若者の中国への理解はまだまだ足りないのではないでしょうか。民間交流の基礎をより固めるべく、日本の若い人びとの中国への渡航が増えるよう、両国の関係部門にはもっと力を入れて頂きたいと願っています。

 備考:「餘音梟梟して,絶へざること縷の如し」:(宋時代の詩人‐蘇東坡(蘇軾)の“前赤壁賦”の中の一句で、「余韻はいつまでも消えず、糸のように細々と続き」と言う意味)

(作者:羅和慶)