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上海•大阪交流文集|隋唐の遺跡の中に中日新しい未来を探し求めよう

2022年 11月 2日16:22 提供:東方網

  顧みると、歳月のたつのは本当に矢の如し。たちまちのうち、それはすでに15年も過ぎ去った。2007年8月、遣隋使及び翌年の隋の使節日本渡来1400年を記念するため、大阪府が奈良県と連携し、中国側の上海市と陕西省の対外友好協会と協力して、21世紀の遣隋使•答礼使の相互訪問というイベントを盛大に催した。光栄なことに、私も上海市訪日団の顧問として大阪府と奈良県を訪ね、さらに高野山までにも足を伸ばし、中日両国の交流が源が遠く流れが長いことに深く感銘を受けると同時に、日本側の心をこめた暖かいおもてなしにも心が打たれた。この記念文を書くために、当時の日記と写真を探し出して再び紙に記録した文字を興味深く目を通しすと、15年前の情景が生き生きと目に前に浮かんできた。ここでとりあえず昔の日記を抄録しながら、文章を綴ろう。そうしたほうがたぶん臨場感多少出てくるであろう。

  2007年8月17日金曜日晴れ

  午前9時、泊まりのホテルKKR Hotel OSAKAを出発して、観光バスで難波駅へ向かう。そこで10時ちょっとに発車する高野山行きの南海快速に乗り、南東方面に赴く。高野山は和歌山県にあり、海抜千メートルあまり。車窓から眺めると、山々が連綿と続き、見渡す限り鬱蒼たる緑ばかり。1時間後、終点に到着。またロープウェーに乗り換えて頂上まで行き、さらにバスで金剛峰寺に至る。ここは今世界遺産に入っている。

  まず総持院の広間へ案内された。ここは昼食会の場であった。仏寺だから、出されるのは精進料理。言うまでもなく、畳敷きで、靴を脱いでから中に入る。奥のところに「飛天」という天女の姿が描かれた大きい屛風が立ち並んでいる。ものすごく広い大間に、それぞれ各種の野菜や大豆などで作られた料理がお膳にきちんと並べられる。日本語でそれを「銘銘膳」という。人々は座布団に座り、それぞれ食事を取る。中国でも、唐の時代の半ばごろまでは同じような形をとっていた。初唐の顔師古が『急就章注』にこう書いている。「足のないのを盤という。足のあるのを案という。いずれも食べ物を載せる道具である」。唐の後半になると、西域の影響を受けたためであろうか、食卓と椅子の形に移行してきた。今日の精進料理は、器にしても、盛り付けにしても、すべて素敵である。食材は大体野菜や大豆または蒟蒻など、味は淡白。運び役をしているのはすべてお坊さんで、それも生まれてからの初体験である。

  食事後、金剛峰寺の諸寺院へ移る。804年遣唐使の留学僧として入唐した弘法大師空海が長安の青竜寺で密宗を習得して帰国した後、816年に高野山において真言宗を創立、金剛峰寺を建てた。ここは今真言宗の大本山で、各地にある総数三千以上の末寺を統轄している。ある建物が本殿らしく、金堂か何かという。靴を脱いで入ると、中の縁側や廊下などで各建物とつながり、梅の間、松の間など数十の部屋があり、16世紀から17世紀にかけての狩野一族が描いた襖絵の原作も数々あり、貴重な芸術品である。縁側の間に、枯山水あるいは石庭と呼ばれる禅風のお庭があるが、炎天下で眩しい光の下では斜陽の影もなく、なんとなく風情に欠けているようである。お寺の一番広い間で、僧侶たちはわれわれに歓迎式を行い、お経を読んで祝福してくれた。抑揚のある梵唄は、その余韻が漂い広がる。

  金堂を出てから、周りを散策する。ここは標高が高いから、真夏日の割には涼しいほうである。大部分の寺院の建物は茅葺きで、昔の塗りはほとんど色褪せて消えており(あるいはもともとはそうだったのか)、古色蒼然に見える。ただ高く聳え立っている根本大塔だけは、赤みがたったみかん色と白に塗られて、非常に目立っている。

  2007年8月18日土曜日暑くて晴れ

  今日一日の活動範囲は、大阪府内である。

  朝食を済ましてから9時出発。車で大阪府南部にある太子町に向かう。太子町では主に叡福寺を訪ねる。当年の聖徳太子のお墓がその近くにあるから聖徳太子廟とも呼ばれ、地元の地名もそれに因んで太子町と名づけられた。

  太子町では空前的な暖かい歓迎を受けた。百名近き児童たちは列を並んで中日両国の国旗を振り回しながら私たちを歓迎してくれた。境内の広い空き地は盛大な会場に変身した。町長をはじめ、町内の要人たちはことごとく来場し、町内のある中学校の吹奏団が軽やかなメロディを演奏しながら睦まじい雰囲気をかもし出した。すべての日本人は毒々しい火のような日差しの下で汗をぬぐいながらきちんとすわり、それを見てわれわれは皆深く感動した。もちろん、われわれも同じように猛烈な炎天下で座る。

  歓迎式が終わると、聖徳太子のお墓に参る。その後、また古い町を歩きまわり、昔風の書院造の日本間に入り、地元の女性が茶道をプレゼントしてくれた。われわれも順番に茶碗を持ちながらお茶を飲んでみた。また最初の遣隋使である小野妹子のお墓も参詣した。いたるところで暖かいもてなしを受けた。

  午後2時ごろ、車で藤井寺市へ移動。ここは2004年に山西省に遣唐使の一員である井真誠の墓碑が発見されたことで人々の熱い視線を浴びた。井真誠は藤井寺出身の方で、今の藤井寺も唐風の色に染められている。市内の商店街を通る時、両側の市民が中日の国旗を振り回しながら歓迎の意を表した。真言宗御室派の藤井寺(葛井寺とも書く)を見学してから、市民会館のような施設へ到着。ここで贈られた浴衣に着替え、浴衣の姿で地元の歓迎会に出席、市長をはじめ各部署の要人も臨席、場面が盛大である。その後、地元の夏祭りに参加、贈られた5枚のクーポン券で飲み物や食べ物などを買い、軽い土産品にも換えられた。天気は結構暑かったが、友好の雰囲気はさらに熱い。

  2007年8月19日暑くて晴れ

  ……その後奈良県桜井市のある会館に移動し、そこで夕食を済ましてから隋唐時代の中国の文官の服に着替え、日本人たちは飛鳥時代の官服に着替えた(それらの服はすべて日本側が用意してくれたもの)。みんなは格好良く見えるが、私だけは体が小柄なので、ややだぶだぶとした感じ。

 その後金屋河川敷公園へ移動。古代ここを「海石榴市」と呼び、初瀬川という川が市内を流れる。川の畔に着いた際、丁度日が暮れていった。絢爛たる夕焼けがだんだん暗くなってゆき、暮色がのどかに川面から周囲へ広がってゆく。蒼然たる暮色の中、清らかな川水がほぼ底まで見える。上海と陕西省の訪日団はそれぞれ一列に並んで、太鼓をたたく者と笛を吹く者に導引され、緩やかに会場のほうへ足を運ぶ。当年の小野妹子と隋の答礼使裴世清らはここで川から上陸したそうである。会場内に、奈良県荒井正吾知事や桜井市長谷川明市長など各部署の要人、20人ほどがすでにわれわれを待ち迎えている。迫力のある太鼓の音と悠揚たる笛のメロディに続いて、知事と市長はそれぞれ挨拶をし、中国側の両団長も答辞を読み上げた。

 その時、日は完全に暮れた。われわれは自分の願い事を書いた紙灯籠をそれぞれ川へ流した。私が書いたのは「家族健康、中日友好、世界平和」である。中の蝋燭が燃やされた紙灯籠は、涼しい夜風に吹かれて、緩やかに川面に流れ、点々とする明かりが夜空の星のように、幻想的な光景を繰り広げ、誠に見事である。

 夜8時半ごろ、市役所のある部屋で着替えをし、バスで大阪のホテルに戻る。

 以上は15年前の日記の一部の抄録である。これらの文字をパソコンに入力するとき、当時のシーンが昨日のように、一々と鮮明に目の前に浮かんできた。15年間のうち、中日関係にもいくらかの紆余曲折があったものの、当年日本友人の暖かいおもてなしや友情は今になっても心を暖めてくる。千四百余年前、聖徳太子が歴史の潮流に乗り、国交中断百数十年の局面を打開し、小野妹子を正使とする遣隋使を派遣し、両国の友好関係を修復した。その後、唐王朝が樹立してからも、16回に及ぶ遣唐使を中国へ送り、当時唐の先進文化を全面的に導入し、いわゆる唐風時代を開いた。その後、日本は東アジア大陸文化を汲み上げた上、さらに独自の爛熟たる日本文化を列島で花咲かせた。

 今年は丁度中日国交正常化50周年にあたる年である。世界の風雲が激動しつつあるにもかかわらず、国と国の間、とりわけ隣国同士としての中日両国、友好的に付き合うというのは、厳守すべき鉄則であると想う。これから、中日両国は隋唐の遺跡を辿りながら、ともにもっと健全な新しい未来を開こうと衷心より願っている。

(作者:徐静波)