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上海は「家」、日本は観光地=在上海日本人松村浩二氏

2022年 9月 29日16:34 提供:東方網

  18歳まで出身地の福岡で生活し、35歳まで阪神地区にある大学で働いた後、59歳となる今日まで、上海で24年間生活している。「上海は私が一番長く暮らしているところです。私にとって日常は『旅』であり、日本は観光地だといえるでしょう」と、上海に暮らす上海飛翔日本人補習センターの塾長、松村浩二氏は述べた。 

  学者から教師へ社会に貢献する目的は同じ

  1998年、上海で仕事をしている妻と息子のために、松村浩二氏は日本で日本文化史と思想史を研究するという学者の仕事を辞めて上海にやって来た。それからもう24年の月日が流れた。

  上海に来た後、知人の勧めで起業。上海飛翔日本人補習センターを創立し、上海在住の日本人子女を指導し、時に中国人に日本語も教えてきた。これまでに教えた生徒は600名以上を数え、彼らのほとんどが社会で活躍している。「小学3年生から高校まで7年間教えた人は、今、弁護士をしています」と松村氏は誇らしげに述べた。

  学者から教師へ転身について、その違いを尋ねると、松村氏は、「学者は自分のために研究し、社会に何かを残します。いっぽう、教師は子供らの成長のためにあります。道は異なっても、社会に貢献することを目指す点では同じです」と述べた。 

  毎日変わってゆく上海を記録するため日記を書く

  教師の仕事以外の趣味というと、松村氏は上海という街を歩いたり走ったりすることが好きだ。そうして毎日、見たこと聞いたことを日記に記録している。「上海は毎日変わっていますが、毎日発見があります」という。

  もともとは山登りが趣味だったが、上海は山が少ないので、走るのが日課になった。電子地図がない時代には、福州路であらゆる上海全区の地図を買い求めて市内と近郊を走り回った。

  道に迷って、結婚式を行っていた家に入ってしまったこともある。「農村の結婚式はにぎやかで驚きました。郊外を走ると道に迷うことはよくありますが、現地の人は優しいし景色も特に綺麗なので楽しいです。最も遠かったのは、上海の北西にある嘉定から上海市内まで走って戻った時です」。走りながら写真を撮って、「ここでショッピングモールがオープンしたり、あそこに公園ができたり、新しい図書館を見つけたり」と、新しく発見した上海を記録してきた。

  そのため彼は上海の交通機関も熟知している。松村氏の妻は、「上海の道のほとんどと新しいことは、みんな夫から教わりました。もし上海にいる日本人を全部集めて、交通機関についてクイズをすれば、夫は絶対一等賞を取ります」と笑った。

  松村氏は先日日本に戻ったが、その時のことを、「東京では道がよく分からず緊張しました。日本にいるときは旅のような感じです」と語った。

  普通の日本人の角度から、本当の上海と中国を書く

  「上海はあなたにとって、どんな存在ですか」という質問に対して、松村浩二氏は「旅の日常」と回答した。

  「毎日、街を歩いていろいろなことを発見します。ニュースでよく出てくる陸家嘴、バンド、豫園だけでなく、その他の景色もたくさんあります。普通の日本の新聞やテレビでは見えないことを、上海で暮らしている普通の日本人の角度から、日本人に向けて上海人の生活の様子や真実の中国を伝えたい」と述べた。 

  そのため、24年の間、『中国経済新聞』、『Whenever』、『四季ダイキン』などの依頼を受けて、真実の中国を日本に向けて発信し続けている。「今年の4·5月には、『中国経済新聞』に上海のロックダウン期間中の真実の生活についての文章を数回発表しました。この間、勉強になったことも多い。たとえば、子供らにリモート授業が出来たこと。数時間でPCR検査の結果が出るのを見て、中国のデジタル化、IT化の程度の高さに驚いたことなど。食料不足の問題でも団体購入ができ、お年寄りでも簡単に利用できることなど日本では想像ができません」と述べた。

  彼の妻は中国人なので、子供は中日のハーフである。教え子の中にも中日のハーフが多いという。「若者は将来の中日友好の希望と柱です。彼ら、特に中日ハーフの子供らが友好交流の架け橋になってほしい」と語った。

  「今回、日本に戻って、藤沢市鵠沼海岸近くにある聂耳の記念碑に行きました。聂耳は上海で『義勇軍行進曲』を創作した後、国民党政府の追跡を避けるために日本に行き、藤沢市の海辺で泳いでいた時に亡くなったそうです。記念碑は聂耳を記念するために、彼の出身地の雲南省昆明市政府(昆明市と藤沢市が姉妹都市)の出資で建設したものです。私はそれを見た時、上海の淮海中路復興中路の交差点にある聂耳の銅像を思い出しました。一つの曲で中日両国の民間交流が繋がり続けているというのは不思議なことです。次は、そのことについて書きたいと思います」と松村氏は述べた。

  (曹 俊 写真も)